かなしみ。

観た映画についての短文まとめ

パストライブス/再会(セリーヌ・ソング監督、2023年、米&韓)

Past Lives[6/10]

12歳で韓国を離れた北米へ移住した少女ノラ(グレタ・リー)が初恋の相手ヘソン(ユ・テオ)と12年ごとに再会していく。24歳のときにはFacebookで発見してSkypeでつながり、画面越しにいい感じになるのだが、しかし遠距離であることのさまざまな弊害が重なって結局恋人未満の関係のまま断絶。そして、36歳、ユダヤアメリカ人と結婚してすっかり所帯じみたノラの住むNYにヘソンが尋ねてくる、という恋愛映画。
うつくしいカットの続く映画ではある。じわじわとスロウにズームしたり動いたりするカメラワークは最近流行ってんのかな、という感じで鼻につくものの、ウォン・カーウァイあたりの90年代アジアン洒落乙映画風にうまく現代アメリカアートハウスのテイストをブレンドしたような画面の質感はそれだけでため息が出る。A24の映画をなんでもA24だ、ですませるのはあまり好きじゃないけれど、これはA24でしょう。だって、ノラの夫役で最近ケリー・ライカートの寵愛著しいジョン・マガロが出てくるんだし。
主演ふたりの距離の隔たりを「夜と昼」に対比させているのもよい。
ただ、うつくしさだけで間を持たせられるだけのパワフルさにはまだまだ欠けていて、先の見えたメロドラマ、いっそハーレクインロマンス(それ自体は悪いことではない)というのもあって、開始15分も経つとひたすら退屈になってくる。終盤でヘソンがニューヨークにやってきてノラ夫婦と三角関係のようなものが可視化されるとようやく締まってくるというか、やはり恋愛映画では三人いないとサスペンスは生じないんだな、とおもった。
それにしてもこれをオスカーの作品賞にねじこんでくるCJのロビイ力はすごい。

異人たち(アンドリュー・ヘイ監督、2023年、英)

All the Strangers[7/10]

中年脚本家のアダム(アンドリュー・スコット)の部屋を突然、おなじマンションの住民だという見知らぬ男が訪ねてくる。ハリー(ポール・メスカル)と名乗るその男性と惹かれ合うアダム。その一方で、彼は12歳のころに交通事故死したはずの両親と再会し、なつかしの我が家に迎えられる……というお話。
先ごろ亡くなった山田太一原作。わたしは小説も映画も未見。
本作オリジナル要素として主人公にゲイ属性が加えられており、それが物語部分、特に両親との関係に影響を与えている。少年時代のアダムは自分の性的志向を伝えられないまま両親を失ったのだけれど、40歳になって再会していざカミングアウトしてみると、保守的なカソリックである両親の反応は芳しくない。劇中を通じてこの両親が幽霊なのかアダムが作り出した幻なのかはあいまいにされたまま進むのだけれど、両親はあんまりアダムに都合よく迎合してはくれないのですね。
そんな両親とのふしぎな交流が、いっけん全く関係ない感じのハリーとのプロットにもやがて絡んでくる……というとネタバレになるけれど、知らない状態だとラストはけっこうビビる。
言えるのは、アダムはハリーとの関係にしろ復活した両親との関係にしろ最初「見られる人/見出される人」として登場するのだけど、ラストではこの構図が見事に反転するということ。
鏡と顔の映画でもあり、特にアンドリュー・スコットの顔は終始ドアップで映りまくる。こう見ると、そんなに表情に細かいニュアンスの出る役者でもないのだけれど、画面が保たせるだけのパワーはある。
原色や日光のライティングも印象的な映画でこのへんはポール・メスカルが出ていることもあって否が応でも『aaftersun』を想起せざるをえない。流行ってるんですかね。アンドリュー・ヘイは『さざなみ』のころからこんな感じだった気がするけれど。

流転の地球 -太陽系脱出計画-(グオ・ファン監督、2023年、中国)

流浪地球2[5/10]

 

劉慈欣のSF小説の映画化である『流転の地球』の前日譚。

太陽が赤色巨星化かなんかするせいで100年後に地球がヤバいってなったから地球にエンジンを取り付けて太陽系にむりやり移動させる「移山計画」に向け邁進する人類であったが、意識をデジタル化することによって物理的な肉体を捨て永遠の命を得るべきだとするデジタル生命派と激しく対立。デジタル化による人類の求心力低下を恐れた国際社会はデジタル生命を全面禁止化するが、それによるデジタル生命派は地下に潜って過激なテロを行うようになり、「移山計画」の最前線であるガボンの宇宙エレベータを襲撃し、計画の柱であって宇宙ステーションを墜落させてしまう……といったようなところから始まる作中時間で数十年をかけた群像SFドラマ大作。

最初の三十分がとにかくノンストップ。カッコいいフォントの固有名詞がバンバン大書され、ドローンやら戦闘機やら巨大建造物やらがバカバカ爆発し、香港コメディみたいなノリで格闘アクションとしょーもないギャグを連発するのでこれを3時間続けたら大したもんだぞ、とおもっていたのだけれど、死んだ娘の意識をデジタル化したことで葛藤するアンディ・ラウが出てきてからはシリアスな湿っぽさ一辺倒になって失速してしまった。

見ていると古今のSF映画、たとえば『スターウォーズ』、『2001年』、『アルマゲドン』、『ブレードランナー2049』といったあたりのオマージュらしきところがいくつかあって、出てくるSF的意匠もちゃんと好きな人が作ってるんだな、とおもうけれど、なんというか、テイストがあまり感じられない。

ある程度規模のデカいSF映画にあっては、新規性のあるSF的なアイデアがかならずしも必要だとはおもわないけれど、新規性のあるビジュアル(メカニックデザインでも世界観でも雰囲気でもファッションでもクリーチャーでもなんでもいい)を提示するのは義務なんじゃないかとおもう。それが映画の未来を作るという点においてもっともSF的な挑戦であるから。

アイアンクロー(ショーン・ダーキン監督、2023年、アメリカ)

The Iron Claw

9/10


80年代のテキサス。プロレス一家のフォン・エリック家というのがおり、父親のフリッツ(ホルト・マッキャラニー)をはじめとして、その息子四人全員*1がプロレスラーだった。兄弟たちは父親の悲願であったNWAのヘビー級世界チャンピオンを目指して邁進するが、のちに「フォン・エリック家の呪い」と呼ばれる数々の悲劇に見舞われていくことに……というお話。
一見スポ根のようだけれど、実はアンチスポ根だったりもする。ちかごろの格闘技映画、特にボクシング映画やプロレス映画といえば、寄りのカメラで飛び散る汗や激しい息遣いを切り取るものという作法があるのだけれど、この映画は試合のシーンになってもそこまで劇的なカメラ回しをしない。
それが極まるのが三男ケリー(ジェレミー・アレン・ホワイト)の世界チャンピオン戦。先述のように父親の夢であり、ある種の弔い合戦的なアングルもあって、通常のスポ根映画なら大いに盛り上げるところなのだけれど、あっさりを通り越して、ほぼ飛ばしてしまう。
これは事実上の視点主人公が次男のケビン(ザック・エフロン)であるところも大きい。彼は真面目でマッチョで誠実で兄弟や家族に対する愛情に満ち溢れたナイスガイなのだけれど、根がやさしいせいかあと一歩のところでレスラーとして大成できない。そのせいで、父親からの期待が他の兄弟に移るようになり、愛する兄弟の活躍を日陰から見守るという複雑な立ち位置になってしまう。
父親はまあ、暴力親父とかではないのだけれど、とにかくザ・家父長!みたいな人物で、とにかく自分が現役時代に獲得できなかったチャンピオンベルトに固執していて、息子たちのためというよりは自分がかつて果たせなかった夢を叶えてもらうためにハッパをかけてくる*2。どうも父親には「自分は本来チャンピオンベルトに値したのに、他のやつらの思惑のせいで奪取できなかった」という思い*3があるようで、さんざん息子たちに「やつらは俺達からなんでも奪いにくる。それを許すな」と言ってくる。
こんな父親の存在がプレッシャーとなって兄弟たちの人生にのしかかってくる、といった次第。

そんな父親にケビンも愛憎入り交じった感情を終始抱きつづけるのだけれど、一方で兄弟愛はまっすぐに純粋でうつくしいものとして(特に前半では)描かれる。この描写がほんとうにいい。マッチョな男兄弟たちが笑いあいながら戯れる。ケビンの結婚式のダンスもほんとうによい。『エブリバディ・ウォンツ・サム!』みたいにずっとこの瞬間がつづけば幸せだったのだけれど。
ケビン役のザック・エフロンのたたずまいも一役買っていて、かなりのムキムキなボディにどことなく頼りない輪郭、そしてピュアな瞳、といったバランスはいかにも「大人の身体をもてあました子ども」といった印象を強める。「幼い頃に兄を亡くしたせいで長男的役回りを引き受けている次男」というポジションも絶妙。彼なりに崩れていくブラザーフッドをなんとか繋ぎ止めようとするんだけど、それはそもそも父親の病んだ野心のもとに築かれたものだから、彼自身うまいやりかたが見つけられなくてズルズルいってしまう。

ほんとうに、ラストシーンがいいんですよね。シチュエーション的には陰惨極まりないのに。ザック・エフロンの顔一発でなんとなくいい感じにしめた気分になる。そう、涙の映画でもあるんですね。
撮り方はやたらにじりよるズームを多用したり、時代に応じた演出(モノクロ撮影だったり当時のプロレス番組風のエフェクトだったり)がすべっていたり、メンタルヘルスまわりの描写が単調だったり、要所要所であまりに突き放しすぎかとおもえばベッタベタなやつたってきたりと、同意できないところも多いのだけれど、兄弟もの好きとしては抗いがたい魅力をもった作品。
あと、アメリカではマンションでもデカいイヌ二匹も飼えてうらやましいなっておもいました。

*1:四人兄弟ではなく劇中では幼少時に事故で死んだ長男にも言及される。しかも史実では六人目の末弟もいて、彼もまた悲劇的な死を遂げている。

*2:ちなみにケビンに重要な試合をセッティングしてやるシーンでは、最初嬉しがってたケビンが父親から「俺の夢を果たしてくれ」と言われた途端、BGMも不穏なものに切り替わるのがあからさますぎてちょっとおもしろい

*3:プロレスにおけるポリティクスは序盤でケビンの口から示唆される

ヒッチコックの映画術(マーク・カズンズ監督、アメリカ、2022年)

(My name is Alfred Hitchcock, 2022)

マーク・カズンズ監督がヒッチコック作品に使われている技巧をテーマ別に分析していくビデオエッセイスタイルのドキュメンタリー。体裁がやや特殊で、最初に「脚本&ナレーション:アルフレッド・ヒッチコック」とクレジットが出て、ヒッチコックを名乗る音声の一人語りで進行していく。分析自体はフツー(それこそ『ヒッチコックの映画術』読んでるような層にとっては)なんだけど、参考映像が流れるとやはり愉しい。オタクのひとり語りはよいものです。そういえば、最近特になんにも考えずに買った本が監督の本だった。

 

 

本でもこの人はスタイル変わらない。

コカイン・ベア(エリザベス・バンクス監督、アメリカ、2023年)

(Cocaine Bear, 2023)

1985年、マフィアが密輸していたコカインが自然公園のど真ん中で紛失し、それを大量に摂取してハイになったクマが凶暴化してヒトを見境なく襲うようになる。そんなコンセプト以上におもしろいことはほとんど起きない。主にクマのCGにそれなりの予算がかけられてもいて、プロット的にも「親子の絆」のモチーフを重ねるということをやってはいるのだけれど、いかんせん「コカインでイカれたクマ」というスターを持て余し気味。とはいえ、大惨事というほどでもなく、ハイになってのたうちまわるクマはキュートだったし、森林保護官役のマーゴ・マーチンデイルは輝いていた。これが遺作のレイ・リオッタもそれなりに見せ場があって悪くない。ところで、あれだけの量のコカインを子どもが経口で摂取したら、普通死ぬとおもうんですが……。

イコライザー:The Final(アントワーン・フークア監督、アメリカ、2023年)

(The Equalizer 3, 2023)

 

 シチリアのワイン農園を襲撃しなにやらマフィアっぽい集団を全滅させなロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)だったが、思わぬ深手を負い、流れ着いた天国のような港町のアルテモンテで療養することに。地元民と親交を深め、町に愛着を持つようになったころ、思わぬ方面からナポリマフィアの魔手が伸びる。キアヌ・リーブスにしろリーアム・ニーソンにしろトム・クルーズにしろ60歳まわりのアクションスターに共通しているのは使い果たされたような疲労感と心身共に傷ついた印象であって、デンゼル・ワシントンのロバート・マッコールもその意味ではご多分に漏れない。映画の前半は傷の癒えない身体を杖でおしてえっちらおっちら歩く。ただ、ほかの老齢アクションスターと違うのは戦闘モードに入るとアンタッチャブルな超人亡霊と化すことだ。そのうちというかすでにペイルライダー。彼は敵からずっと問われ続ける。「おまえは誰だ? 何者なんだ?」。誰何を放棄し、ただ彼を受け容れる人たちは幸いである。彼によって慈しまれるだろうから。