かなしみ。

観た映画についての短文まとめ

BAD LANDS バッドランズ(原田眞人監督、日本、2023年)

BAD LANDS, 2023

 

 訳ありな事情から西成(『さがす』以来の西成文化搾取映画でもある)でオレオレ詐欺の現場マネージャーを務めるネリ(安藤桃子)が、出所したばかりの義理の弟・ジョー(山田涼介)を仕事仲間に引き込むが、それをきっかけに事態はとんでもない方向へ転がり出す。80年代と90年代から一生出てこられないような質感をおそらくは半分意図的に半分ナチュラルに出しつつ、グダグダノワールを回し続けて2時間半飽きさせないのは見事。完成度という点では舞台選びでも似ている監督の前作『ヘルドッグス』に劣るけれど、早口ゼリフかつ食い気味のカット、時にいくらなんでもコテコテすぎる古臭さとクラシック使いでも魅力の落ちない俳優陣に救われている。柄本明みたいな爺さんがいい味出してるけど柄本明にしては若いな、とおもってたら宇崎竜童だった。複数の矢印をすべて安藤桃子へと収束させるむりくりな脚本は意外と筋が通っている部分とあって、特に一度失敗したヒットマンが二回目に成就するロジックがよい。チンピラノワールはこれくらいハスッパで、ちょうどいい。そして、姉弟で同期するコーヒーの匙回し。

 

熊は、いない(ジャファール・パナヒ監督、イラン、2022年)

Khers nist、2022

 

 

イランからの出国禁止を命じられていたる画監督のジャファール・パナヒ(本人役)は、トルコ国境地帯のとある農村に滞在しながら、トルコ国内で撮影されているドキュメンタリーに助監督を通じて指示を出していた。ドキュメンタリーの被写体は盗んだパスポートによって国外脱出を図る夫婦。芳しくない通信状況に苛立ちを感じながらもパナヒは撮影を継続するが、一方で彼自身も村内で生じたいざこざに巻き込まれていく。そんな虚実の入り混じったあらすじに呼応するように劇中では「撮ること」と「ウソ」が(まさに撮られるものが撮るものを直視するという泥臭い作法で)強調*1されていく。パナヒはある写真を撮ったかどうかを村民に問われて否認し、窮地へと追い込まれるのだけれど、彼は「本当に撮ってないというのなら村の儀式に則って、村民たちの前で神に誓え」と強いられる。パナヒは神の代わりにカメラの前で宣誓を録画したい、という奇妙な交換条件を出す。カメラはシネアストにとっての神(なので本作における人間の生の視線はカメラよりも無力だと強調される)であると同時に、そこにうつるものはすべて(ドキュメンタリーにおいてすら)装われ欲望された虚構でもある。そしてそのカメラの虚構性もトルコでの撮影のクライマックスによって出演者によって、あられもなく糾弾される。パナヒは自身のリアルな政治的な立場をテコに利用して、映画についての映画を撮った。業が深い。

 

 

 

*1:国境付近でパナヒが立ち止まるシーンは象徴的で、国境という国が境界が作中作の撮る撮られる関係の境界にもなっていて、しかも映画自体において観客に観られているのはパナヒ本人であるというねじまがった撹乱もある。

ロスト・キング 500年越しの運命(スティーブン・フリアーズ監督、イギリス、2022年)

The Lost King, 2022

二人の子どもをもつフィリッパ(サリー・ホーキンズ)は持病の筋痛性脳脊髄炎のために仕事が休みがちでなかなかうまくいかず、元夫(スティーヴ・クーガン*1)との関係も微妙で、人生に行き詰まりを感じていた。あるとき、彼女はシェイクスピアの史劇『リチャード三世』を観覧し、生まれ持った障害(脊柱側湾症)のために人格が捻じ曲がって無慈悲な殺人者となりはてたリチャード三世のキャラに強い違和感を覚える。彼は曲解されているのではないか、と直感したフィリッパは、リチャード三世を擁護する愛好家団体や歴史の専門家、行政、そして彼女自身の家族を巻き込みながら、墓所が所在不明となっているリチャード三世の遺体探しを始める。

事前にあらすじを聞いたときは危うい話だなあ、と思った。監督も述べているように、これはパラノイアックな素人がインスピレーションに徹底的に従って頭の硬い専門家たちが発見できなかった「真実」にたどりつく話であり、この枠組みだけ取れば陰謀論者にありがちなパターンだからだ。シェイクスピアのリチャード三世像をひっくりかえそうとする試みといえばジョセフィン・テイの歴史ミステリ『時の娘』で、この作品自体は当時から精確性を評価されていたらしいけれど、テイに感銘を受けた高木彬光源義経=チンギス・ハン説を"歴史的事実"として信じて描いた『成吉思汗の秘密』を出した。島田荘司写楽で似たようなビリーバー趣味を似たようなファナティカルさでやっている。これらはどこまでいったもフィクションなので正気なら信じちゃいけませんよ、で通るのだけれど、『ロスト・キング』ときたら元は実話だ。現実のフィリッパはもちろん玄人はだしの見識と知識を備えた人物のようだけれど、映画ではいろいろとオミットされる。劇中のフィリッパはスタート時点では文字通りの素人で、そこからリチャード三世に関する本を八冊そこら読み、あとは専門家や愛好家仲間から聞き齧った知識だけで発掘に乗り出す。敵対する専門家からは「直感や熱意だけで歴史を語るのは危険だ」と忠告されるのだけれど、フィリッパは自分のパラノイア固執する。

これでフィリッパが徹頭徹尾「世に認められてないだけの正しい人物」としてのみ描かれていたら目も当てられなかったが、そこはさすがに一片のアイロニーのようなものが含まれていて、フィリッパはそこそこ"病んだ"人物として撮られている。なにせ、行く先々でリチャード三世本人の姿が見え、時に語りかけてきたりもする。ご丁寧に「これは他人からは見えない幻覚ですよ」と確認させるようなシーンもあって、慎重というかいじわるというか。人生に倦み疲れた平凡な中年を演じさせたらサリー・ホーキンズは一級だ。ビクつきながら大学の考古学教授を尋ねるシーンなどは「自分が窓口の職員や教授本人だったら確実に追い返しているだろうな」と確信するほどに怪しい挙動のヤバい市民をやりきっている。幻覚であると自覚しているはずのリチャード三世から「僕がいうのもなんだが、きみはおかしくなっているのでは?」と心配されるくだりはいかにもおかしいし、ヤバいといえば、スコットランドに住む庶民がイングランドの王をその正統な系譜に復帰させるために奮闘するのもキている。発掘現場にユニオンジャック柄の長靴履いていくってなんだよ。英国人にしかわからないジョーク?

フィリッパは、病気と外見によって判断され、世界の隅に追いやられているリチャード三世に自分の姿を重ね、それこそが発掘の最大のモチベーションとなる。コンクリートの下に隠された遺骨を掘り出すことで、病の下に隠れた自分自身の価値を証明しようとする。そうして発見されるのは「ほんもの」は彼女の幻視する演劇から飛び出てきた高身長美男子の「理想のリチャード三世」ではない。でもそのイメージのズレは捻じ曲がっているかもしれないけれど、(劇中のセリフ曰く)「完璧」な自分だ。リゾの曲みたいだけど、落とし方が意外とオトナでうまい。

困難の連続する道のりではあるものの、映画のプロット自体はわりと平坦にサクサク進む。特に英国では発見のニュースが大きく報道されて観客の記憶にも残っているだろうから、「見つかるか見つからないか」のサスペンスがあまり機能しないとでも思われたのか。それにしたってもう少し盛ったってバチはあたらないと思うのだけれど。撮り方もフラットだ。

*1:パンフレットなどでは「別居中の夫」と表記され、劇中では「ex-husband」と表現されているのだが、どちらなのだろう。英語では別居じょうたいもexなのか?

ホーンテッドマンション(ジャスティン・シミエン監督、2023年)

Haunted Mansion, 2023

 ニューオリンズで幽霊屋敷ツアーガイドを営む、元物理学者のベン(ラキース・スタンフィールド)はうさんくさい神父ケント(オーウェン・ウィルソン)の誘いである母子(ロザリオ・ドーソンチェイス・W・ディロン)の住む屋敷に出るという幽霊を調査することに。しかし、それをきっかけに屋敷に取り憑く幽霊たちの脅威に晒されるようになり……というお話。元はいわずとしれたディズニーランドの名物アトラクション。ところどころイースターエッグ的に原作ネタが仕込まれていて、「999人の幽霊がいて、1000人目はあなた」はもちろん、「幽霊はフラッシュ撮影が苦手なのでお控えください」とかトリック肖像画とか鏡とかまあいろいろ出てくる。なかでもオッとおもったのは写真。主人公は量子力学を応用した霊写用カメラを開発して学会を追放されたという設定で、写真の歴史がその誕生から(トリック的な)心霊写真とともにあったという背景、そしてディズニーランドのホーンテッドマンションが視覚的なトリックが満載のアトラクションであることを考えるとなかなか興味深い。『死霊館』的なテクノロジー×除霊×CG異界の潮流も踏まえられている。とはいえまあ欠点は多い。ルックを含めて基本的にはファミリー向けの装いなのだけれど、なぜか主人公の抱えている物語(妻の早逝によって生活と精神が荒れている)が不釣り合いに重くて、そこがちょっと軽快さを阻害している。異界演出は安っぽくした『インセプション』みたいで新鮮味がない。舞台が七割八割館内なのでニューオリンズというセッティングが生かされていない。ジャズも序盤以外あまり効いていない。敵キャラを作り出すために意味もひねりもなく迂遠な因縁。シミエン監督はあんまり「はしたない」演出をしたがらないようなのだけれど、コテコテのギャグをロングのワンカットで素気なく撮ってしまうなどファミリー向けコメディとしてはマイナスに作用している。というか、デイヴィッド・ロウリーの『ピートとドラゴン』といい、ディズニーはマーベル以外でも若手のインディー系監督を大作にフックアップしたがるのだが、どうみてもマッチしていないのだからやめたほうがいいとおもう。主演のラキース・スタンフィールドは相変わらずダウナーかつアンニュイな雰囲気で、あんまりわかりやすいコメディ向きでもないとおもうのだけれど、皮肉な陽性のオーウェン・ウィルソンとならぶとちょっとだけケミストリーが生じる。ほんとうに、ちょっとだけだけど。ラストのアトラクションどおりの愉快な幽霊屋敷の風景をもっと観たかった。こっちのが絶対楽しい。あと幽霊犬が一瞬だけ出てくる。ビーグル。

ファルコン・レイク(シャルロット・ルボン監督、2022年)

(Falcon Lake, 2022)

スタンダードサイズの画角。暗い池に浮かんだ死体のような少女の影から始まる。もうすぐ14歳になる少年セバスティアン(ジョセフ・エンゲル)は今年も夏休みにケベックのファルコン・レイク湖畔に家族でやってきた。そこでセバスティアンは母の友人の娘であり、幼馴染でもある16歳のクロエ(サラ・モンプティット)と再会する。クロエに連れられ他の少年たちと交流したりするうち、奇矯な行動を取るクロエにどことなく惹かれていく。クロエは、外からは見えない何かを抱えているようで、それが絶妙に幼いセバスティアンにはわからない。クロエはファルコン・レイクには幽霊のうわさがあるという。そして、自分たちでもシーツをかぶって幽霊に扮し始める。幽霊、死、セックス、痛み。思春期のそうしたゆらぎやすい感情が暗闇へと呑まれていくさまを本作は切り取っていく(自転車に乗ったふたりが時間差で闇に鎖された橋の奥へと走っていくシーンは印象的)。あえて画面を狭くして主人公の少年の顔に寄り添っていく画作りは今年だとルーカス・ドン監督の『CLOSE』を想起させて、実際さまざまな部分でよく似ている。そう考えると、水場という舞台を含めて数珠繫ぎとなった思春期モチーフに安直さというかひねりのなさを感じなくもないが、そこを怠惰に感じさせないだけの力強さを湛えた作品ではある。ちなみに翻訳当時(2019年)に出た原作も好きだったのだけれど、セックスセックス死セックスみたいな構成だった原作が映画ではタナトスタナトス幽霊セックスタナトスタナトスタナトス幽霊セックスタナトスタナトス!!!死!!!タナトスみたいなノリになっていて、最初は未成年の性愛を実写映画へ移植する際の配慮かとおもったらどうも監督の好みでそうなっているっぽい。性愛と死をアンニュイなうすくらがりでつなげるニュアンスはジャンルは違えどデイヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の『イット・フォローズ』を強く意識させた。まあ『アメリカン・スリープオーバー』でもいいのかもしれないけれど。

名探偵ポワロ ベネチアの亡霊(ケネス・ブラナー監督、2023年)

(A Haunting in Venice, 2023)

 

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前作でヒゲをそり探偵を引退したエルキュール・ポアロケネス・ブラナー)はベニスで隠遁生活を送っていた(ヒゲはふつうにまた生えてる)が、旧知の推理作家アリアドニ・オリヴァ(ティナ・フェイ)に誘われて、ハロウィンパーティの夜に行われる降霊会に参加する。有名霊能者のレイノルズ夫人(ミシェル・ヨー)が、元有名女優ロウィーナ・ドレイク(ケリー・ライリー)の亡娘であるアリシアの霊を呼び出すというのだ。超常現象を信じないポアロの懐疑をよそに、レイノルズ夫人はアリシアを憑依させて椅子をめちゃくちゃくるくる回転させながら「私は殺された! 犯人はこのなかにいる!」と叫ぶ。降霊の迫真性と病死とされていたアリシアからの殺人の告発に動揺していた面々だったが、直後にレイノルズ夫人が惨殺され、さらには大雨によって屋敷に閉じ込められてしまう……という話。さんざんいわれていることではあるけれど、原作としてクレジットされている『ハロウィーン・パーティ』とはほとんど関係がない。原作は舞台がベニスでないし、降霊会など開かれないし、事件のきっかけとなる死も中年のミシェル・ヨーではなく12歳の少女である。まあ『ハロウィーン・パーティ』自体行き当たりばったりであとからあとから登場人物と死体が増えていくルースなお話なので、そのまま映画化してもおもしろくはないのだけれど。そもそも関係がないといえばケネス・ブラナーポアロ像が原作とはあまり関係ないのだし。今回のブラナーポアロはいつにも増して他人を攻撃的に激詰めをするパワハラ取り調べ術(原作のポアロと違ってブラフではなく完全に本気)を駆使しており、しかも取り調べ対象もトラウマを抱えて病んだ人たちばかりで、その上舞台となるのが暗いじめじめした密閉空間だから、観ているこちらも終始精神的に抑えつけられているような圧迫感をおぼえる。オールスターキャストだった前二作から出演陣もややパワーダウン(同じく屋敷降霊会ものである『ホーンテッドマンション』のほうがオールスター感が強い)し、舞台も電車や船といった「移動する密室」からクラシカルなお屋敷でのクローズトサークルになっている。そうした作品内外の停滞感や人間不信が、奇妙に引退中のポアロの身の上にも重なって、これはこれで興味深い。ミステリ劇としては、原作の筋がしっかり通っていた前二作に比べるとやはり弱いと言うか、安易にすぎる。年を食ったハムレットみたいなブラナーの顔を楽しむ(本作ではブラナー正面顔固定移動カットというおもしろい極まり方も見せる)シリーズなので、そこを求めるのは贅沢かもしれない。ところで、ここまで改変するならいっそポアロシリーズ外の作品を原作に選んでもいい気もする。『ゼロ時間へ』とかさ。

 

 

 

アリスとテレスのまぼろし工場(岡田麿里監督、2023年)

(アリスとテレスのまぼろし工場、2023)

(毎回500字〜1000字あたりで収めるのを目標としていますが、今回は感想会用のメモを兼ねているので長い)

 

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1991年のある夜、見伏という地方都市で、その基幹産業である製鉄所の事故によって空がひび割れ、その日から街は外部と切り離されて時も止まってしまう。成長も老衰もなくなった街の住民たちは戸惑いながらも、「いずれ元の世界に戻って時間も流れるはず」と信じて、自分たちの現状を保つ努力をする。時は流れ、イラストレーター志望の中学生、菊入正宗は年齢的には「大人」になっているはずだったが身体的にも地域の地位的にも「子ども」のままに据え置かれ、毎日同級生たちと中学校に通うという宙ぶらりんな生活を送っていた。倦怠の日々のなか、正宗はあるきっかけからクラスメイトの睦実と接近し、彼女から製鉄所の秘密を教えられる。それは、製鉄所の一画に閉じ込められた、睦実によく似た別の少女いつみだった……という話。山に囲まれた(見た目)逃げ場のない地方都市に住む少年少女の鬱屈は脚本・監督である岡田麿里の作家的モチーフで、今回もまあそういう話ではあるのだけれど、今回はあえて「永遠の90年代」というファンタジー設定にすることで「90年代をずーっとひきずって30年過ごしてしまった未成熟な日本」という一種社会批評的な視座を引き出してしまっているのがなかなか卓抜というか、2020年代の日本って一周回ってセカイ系だったんだ! と気づかせてくれる。空が割れる絵面は90年代っていうか完全に2000年代だけど。パンフやインタビューを読んでないし読む気もないので岡田麿里監督がどこまで意図しているかはわからないものの、傍からするとやってることは『すずめの戸締まり』的な「日本終わってんな〜でもまあ頑張れ子どもたち!」映画に見えなくもない。が、岡田麿里がすごいのは最後の最後でそうした世界をぶんなげて個人の情念に帰着させることで、物語よりなによりまずおまえが『千年女優』だよってかんじがする。そう情念。岡田麿里は、ミクロレベルの情痴と噛み砕けない未成熟な感情のやりとりをさせるのが抜群に巧い。特に終盤の列車でいつみに対して睦実がかける言葉にはシビれまくった。あそこでああいうことを言わせて、よくある反語的演出感が出ないのはもはや人徳というか神業に近い。反面、プロットや設定はけっこうぐちゃぐちゃ。閉じ込められた見伏を観ていると誰でも「この世界って○○とか××ってどうなってるんだ?」と疑問に思う点がいくつか出てくるのだけれど、映画ではほとんど説明されない。今流行りのノベライズで裏設定説明しちゃうやつか〜、全く感心できないけどな〜、などとおもいながらノベライズ本をぺらぺらしても、驚くなかれ、まったく疑問が解消されない。パンフには書いてあるのだろうか? こうした浮世離れ感は今ここから切り離されたハイファンタジー舞台だったらあるいは気にならなかったかもしれないけれど、明らかに現実の都市(名前こそ伏見に似ているがやはり秩父の感触が強い)をベースにしたリアリスティックな風景で語られると、日常の細部の整合性がひっかかってしまう。そこを抽象性の高いお話と割り切ったとしてもストーリーテリングにはもたつきが多く、劇中で下慣らししておくべきだった情報が後半になっていきなりキャラのセリフや日記によって開示されてもあんまり響かない。『約束の朝〜』みたいな存在しない美しい記憶演出はいいかげんやめてほしい。場面の場面のエモーションのつかみかたは巧いのに、映画全体を通した感情の積み重ねというのがあまり効いてないのではないかという感じがする。いつみも、世界にとって重要な存在っぽい割に、いてもいなくてもいいのか曖昧っぽい。このへんのチグハグさは実は「○少女ものだった!」というオチとの噛みあわせのわるさだろうか。実際にはそんなことはないのだろうけれど、一人で書き上げた初稿をそのまま映画にしてしまったような粗さをおぼえた。粗いだけなら愛嬌なのだけれど、序盤の一時間が心底退屈なのは問題だと思う。アニメーションは劇場版らしくリッチ。しかしストーリーテリングに貢献するタイプのリッチさではない。演劇的な大仰さが鼻につく。アニメ映画によくあるやつで、観てればそのうち慣れる。岡田麿里にはなるべく岡田麿里のままでいてほしいので、共同脚本を入れる案には賛成できないのだけれど、『約束の朝〜』の失敗も踏まえると、やはりファンタジーはやめといたほうがいいのでは、とおもった。