かなしみ。

観た映画についての短文まとめ

ロスト・キング 500年越しの運命(スティーブン・フリアーズ監督、イギリス、2022年)

The Lost King, 2022

二人の子どもをもつフィリッパ(サリー・ホーキンズ)は持病の筋痛性脳脊髄炎のために仕事が休みがちでなかなかうまくいかず、元夫(スティーヴ・クーガン*1)との関係も微妙で、人生に行き詰まりを感じていた。あるとき、彼女はシェイクスピアの史劇『リチャード三世』を観覧し、生まれ持った障害(脊柱側湾症)のために人格が捻じ曲がって無慈悲な殺人者となりはてたリチャード三世のキャラに強い違和感を覚える。彼は曲解されているのではないか、と直感したフィリッパは、リチャード三世を擁護する愛好家団体や歴史の専門家、行政、そして彼女自身の家族を巻き込みながら、墓所が所在不明となっているリチャード三世の遺体探しを始める。

事前にあらすじを聞いたときは危うい話だなあ、と思った。監督も述べているように、これはパラノイアックな素人がインスピレーションに徹底的に従って頭の硬い専門家たちが発見できなかった「真実」にたどりつく話であり、この枠組みだけ取れば陰謀論者にありがちなパターンだからだ。シェイクスピアのリチャード三世像をひっくりかえそうとする試みといえばジョセフィン・テイの歴史ミステリ『時の娘』で、この作品自体は当時から精確性を評価されていたらしいけれど、テイに感銘を受けた高木彬光源義経=チンギス・ハン説を"歴史的事実"として信じて描いた『成吉思汗の秘密』を出した。島田荘司写楽で似たようなビリーバー趣味を似たようなファナティカルさでやっている。これらはどこまでいったもフィクションなので正気なら信じちゃいけませんよ、で通るのだけれど、『ロスト・キング』ときたら元は実話だ。現実のフィリッパはもちろん玄人はだしの見識と知識を備えた人物のようだけれど、映画ではいろいろとオミットされる。劇中のフィリッパはスタート時点では文字通りの素人で、そこからリチャード三世に関する本を八冊そこら読み、あとは専門家や愛好家仲間から聞き齧った知識だけで発掘に乗り出す。敵対する専門家からは「直感や熱意だけで歴史を語るのは危険だ」と忠告されるのだけれど、フィリッパは自分のパラノイア固執する。

これでフィリッパが徹頭徹尾「世に認められてないだけの正しい人物」としてのみ描かれていたら目も当てられなかったが、そこはさすがに一片のアイロニーのようなものが含まれていて、フィリッパはそこそこ"病んだ"人物として撮られている。なにせ、行く先々でリチャード三世本人の姿が見え、時に語りかけてきたりもする。ご丁寧に「これは他人からは見えない幻覚ですよ」と確認させるようなシーンもあって、慎重というかいじわるというか。人生に倦み疲れた平凡な中年を演じさせたらサリー・ホーキンズは一級だ。ビクつきながら大学の考古学教授を尋ねるシーンなどは「自分が窓口の職員や教授本人だったら確実に追い返しているだろうな」と確信するほどに怪しい挙動のヤバい市民をやりきっている。幻覚であると自覚しているはずのリチャード三世から「僕がいうのもなんだが、きみはおかしくなっているのでは?」と心配されるくだりはいかにもおかしいし、ヤバいといえば、スコットランドに住む庶民がイングランドの王をその正統な系譜に復帰させるために奮闘するのもキている。発掘現場にユニオンジャック柄の長靴履いていくってなんだよ。英国人にしかわからないジョーク?

フィリッパは、病気と外見によって判断され、世界の隅に追いやられているリチャード三世に自分の姿を重ね、それこそが発掘の最大のモチベーションとなる。コンクリートの下に隠された遺骨を掘り出すことで、病の下に隠れた自分自身の価値を証明しようとする。そうして発見されるのは「ほんもの」は彼女の幻視する演劇から飛び出てきた高身長美男子の「理想のリチャード三世」ではない。でもそのイメージのズレは捻じ曲がっているかもしれないけれど、(劇中のセリフ曰く)「完璧」な自分だ。リゾの曲みたいだけど、落とし方が意外とオトナでうまい。

困難の連続する道のりではあるものの、映画のプロット自体はわりと平坦にサクサク進む。特に英国では発見のニュースが大きく報道されて観客の記憶にも残っているだろうから、「見つかるか見つからないか」のサスペンスがあまり機能しないとでも思われたのか。それにしたってもう少し盛ったってバチはあたらないと思うのだけれど。撮り方もフラットだ。

*1:パンフレットなどでは「別居中の夫」と表記され、劇中では「ex-husband」と表現されているのだが、どちらなのだろう。英語では別居じょうたいもexなのか?